その日、鷹丸はふらりふらりと教会のあたりを徘徊いたしておった。
異国の香り漂う教会の裏手、ひと気も薄き場所にて、ひとつの古井戸に目を留めたのでございます。
これ、今は木の板にて塞がれ、まるで語るを禁ぜられし秘密の口のごとし。

鷹丸

ふーん、何やらありそうだな…

フミ

どちら様ですか?

きりりとした声が背に飛んだ。

振り返れば、そこに立ちしは
おフミであった。

つんとした横顔も、心根の
真っ直ぐさを映すがごとし。

フミ

あなた、この前の……!また魚釣りですか!この辺をうろうろしないでください!

鷹丸

おぉっと、悪かったねぇ。うちの姉がどうしても魚が食べたい言うもんで、つい…

フミ

お姉さんがいらっしゃるのですか?

鷹丸

そうよ、病弱でな。栄養を取らねぇと医者にも見放されるってわけさ……

その実、これ、
真っ赤な嘘にてござる。

フミ

でしたら、働いたらどうですか!

鷹丸

そ、そりゃそうだなぁ……

ひらり笑ってその場を
逃れんとする

フミ

もし

鷹丸

ん?

フミ

はぁ~
ついてきてください






案内されたるは森の奥深く、
岩と緑に囲まれたる清流。

澄んだ水に、魚影の群れが
ちらちらと泳ぎ回っておった。

フミ

ここは秘密の場所です。魚を獲ったら、すぐ帰ってください

鷹丸

こりゃすげぇ……!今夜はごちそうだ!

フミ

あなたのためではございません。お姉様のためです!

されど鷹丸、その声すらも耳に
入らず、にこにこと川を
見つめていたとか。

かようにして鷹丸とおフミ
心にすれ違いを抱えつつも
不思議な縁を結び始めたのでござる。

川辺にて、鷹丸は己の着物を
たくし上げ、ざぶりと水の中へ
足を踏み入れた。

手には釣り竿を一本。
これをふいとおフミに差し出す。

鷹丸

ほれ、これを使いな

フミ

これは……?

鷹丸

魚が好きなんだろう? そいつで釣るといい

フミ

い、いえ、私は別に……

鷹丸

へへっ、無理すんなって。こんなとこ知ってるくらいだ、魚が好きに決まってらあ

無邪気に笑う鷹丸、その
笑みはまるで子どものようで
どこか憎めぬ風情があった。

おフミは、しばし黙していたが
やがて意を決したように釣り竿を
ぐっと握り、釣り糸を静かに
水面へ投げ入れた

鷹丸

そうこなくっちゃ

鷹丸はそう言い、川の中に腰を
下ろすと、じっと水の中を見据えた。

目を細め、指先に神経を集め
魚の気配をとらえていた。

すると、ばしゃり!

鷹丸

そら!!

手が素早く動き、一匹の魚を
すくい上げて岸へと投げつけた。

水しぶきが舞い、冷たい滴が飛び散る。

フミ

ひゃ!

鷹丸

わりぃわりぃ!

フミ

あなたがそこにいては、魚が逃げてしまいます

立ち去ろうとしたその時である。

ふいに、竿がぐいと引かれた。

フミ

……え?

鷹丸

まて! しっかり握って! そいつは逃がすな!

竿の先は激しくしなり、
フミの体はぐらりと揺れ
今にも川へ落ちんばかり。

鷹丸はすぐさま駆け寄り
川へと引き込まれそうになる
フミの身体をとっさに抱きとめ

その手に自らの手を重ねて
釣り竿を支えられた。

二匹、身を寄せ合い

ひとつの竿を握る――


その刹那であった。

フミ

!!!

フミの頭の奥底に、突如として
黒き記憶がよみがえる。

男のたくましき腕、肌の温もり
――それは忘れたい、いや、
忘れねばならぬ記憶であった。

ぞわり、と肌が粟立ち、手足が
勝手に震え出す。

フミは思わず釣り竿を手放し
鷹丸の腕から無理やりに身を
引き剝がされた。

鷹丸

お、おい……?

鷹丸は驚き、ただその背を
見つめるしかなかった。

しかしながら、竿の先にはなおも

魚が掛かっており、鷹丸は
すかさずそれを引き上げた。

ばしゃっ――と水を蹴って現れた

大きな魚を、嬉しげに掲げて
言われた。

鷹丸

見ろよ、あんたの魚だぜ

まるで、子どもが褒めて
ほしさに差し出す宝物のように。

だが――
フミの目には、怒りと混乱と
そして恐れの色が浮かんでいた。

そのまま無言で近づき
鷹丸の頬を――

バチン!!

鷹丸

え?

フミ

私に……二度と触れないでください

そのまま振り返ると、山道を
足早に下っていかれた。

その背に、鷹丸は何も言えず
ただ立ち尽くしておられた。

手には、まだ跳ねる魚。

けれど、それがなにゆえ重く
感じられるのか、鷹丸には
わからなかった――。





フミは、教会の井戸端にて、
何度も何度も手を洗っておられた。

鷹丸に握られた手のぬくもり――それが忌まわしき過去の記憶と
絡み合い、肌に染みついた
ようで堪らなかったのであろう。

冷たき水を幾度も流し
爪の奥までこすれども
心のざわめきは消えはせぬ。

フミ

……なんで、あんな男のことで……

そう呟いて、ふらつく
足取りのまま、自室へ戻ろうと
したその時――

教会の入口より、どよめきと
歓声が聞こえてまいった。

何事かと訝《いぶか》しみつつ
フミも扉の方へと歩み寄る。

フミ

何か……ございましたか?

これをご覧になってくださいませ

そう言って示されたのは
大きな桶。

中には水がたっぷりと張られ
その中に――見事な魚が一尾
まだ生きたまま泳いでおった。

鱗は陽を浴びて銀に輝き
尾は力強く水をはねていた。

どなたかが、寄付してくださったのですわ

こんな立派なお魚、見たことがありません。神さまのお恵みですわね

シスターたちは皆、心から
喜んでいた。

だが――フミの目には
すぐにそれがわかった。

その魚が、まぎれもなく先ほど
鷹丸とともに釣り上げたものに
相違ないことを。

フミ

……あの方が……

思わずつぶやいたフミの声は
誰にも届くことはなかった。

ただ、桶の中の魚だけが、
尾を振って静かに水を
波立たせておった。

その音が、まるで
返事のように――フミの胸を
少しだけ優しく打ったのでござった。

銀の魚と戻りし記憶

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